韓国映画 「光州5・18」に思う
映画「光州5・18」
今年春公開されたが、地方在住の自分は見ることが出来なかった。
それで、待ちに待ったビデオレンタルが今月初め開始になったので借りてきましたよ。
しかし映画に否定的な私の予想通り、戦争映画に類する娯楽作品でしかなかった。
戒厳軍の残虐な武力行使、それに対し市民が嘆息し激怒し戦う場面は、映像化できる限りに描かれており当時の模様が伝わってきた。
ただ、民主化運動の展開の過程や、光州市民の一心に団結した美しい姿が十分に描かれていないように感じられた。
銃の打ち合いばかりでなく、光州市民の悲痛な思いを、もっと描いて欲しかった。
道庁での最後の戦いで市民軍が死んでいく
しかし、多くの市民は市民軍が犠牲になるのを見守ることしか出来なかった。
生き残った人間にとって、その苦痛がどのようなものであるか。
映画では、生きた自分を最も責めるシネ。
最後のまぼろしの結婚式のシーンで、死んだすべての登場人物はみな笑っているのに、ただ一人生き残った新婦・シネの無表情で寂しそうな思いに全てが込められているのである。
言葉では表せない、自分を恥じる罪悪感...それは、まさしく現在の韓国人の心に残っている光州事件なのではないだろうか。
安聖基(アン・ソンギ)演じる退役将校をヒーロー化し戒厳軍を憎悪する....
それだけでよいのだろうか?(退役軍人も参加していたが実際は学生が主体であった)
実は軍人も洗脳訓練と麻薬により人格を破壊された単純な道具に過ぎなかったのだ。
時の政権が戒厳軍の人格を破壊してケダモノにし、光州市民の肉体を破壊したのだ。
彼らを憎悪するのは光州市民を撃った銃や、市民を捕らまえ乗せて走った自動車などの道具を憎悪するのと同じことなのだ。
では、悪の根源はどこにあるのか?なぜ事件は起こったのか?
全斗煥と盧泰愚が恩赦になってしまった光州事件とは、現在どのように韓国人の心を捉えているのだろうか?
それらの問いに日本人の私が答えられるはずがない。
入口と出口がつながったタイムトンネルに入ってしまったような自分に答えらしきものを示してくれたのが、
小説『光州の五月』
《原題:光州の微笑(2000発刊)、著:宋基淑、訳:金松伊 、出版社: 藤原書店 (2008/05)》 であった。
著者の宋基淑氏は、光州抗争当時市民収拾委員会として働き、光州民衆抗争の首謀者として逮捕され、内乱罪で懲役5年を求刑、1年間服役。
その後、現代史歴史資料研究所(5・18研究所)を設立し、700余名に及ぶ抗争参加者と会い、500余名の後述を取り、整理するという厖大な作業を行い資料集を世に出した。
この作品は、著者の体験を基に、被害者たちの無念さが政治的に歪曲されてしまった現実を生々しき描き「光州」は未だ終わっていないという事実を物語っている。
関心のある方は一読されることを薦めます。
とにかく、映画の評価はどうであれ、映画やグルメだけの韓流ではなく、相手を真に理解する努力をしたいものである。
だが「歴史はどうあれ、仲良くなれればいいんじゃない」と、ある人は言うかもしれない。
しかし、抗争の歴史、反日の歴史、それらは韓国人自らが意識するしないに関わらず、彼らの心に潜在している事実であることも日本人はしっかりと知っておくべきであろう。
(補足)参考図書
『光州5月民衆抗争の記録―死を越えて、時代の暗闇を越えて』(1985/10)
これを整理しなおしたのが、『全記録光州峰起―80年5月 虐殺と民衆抗争の十日間』(1985/11) なので、内容的には変わらずどちらを読まれても構いません。
それにしても、今年最後の記事が長文で、しかも重いテーマになってしまいました。
まあ、年末スペシャルということでご容赦願います。
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孫がくれるお菓子を断れない・・・
すっかり忘れていました。









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